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西洋比較演劇研究会12月例会のお知らせ

西洋比較演劇研究会12月例会シンポジウム「ライブ×メディア—演劇と映像の関係性をめぐって」

2015年12月19日土曜日 14:00-18:00
会場 成城大学3号館 311教室

パネリスト:岡原正幸(慶應義塾大学)、辻佐保子(早稲田大学)、田ノ口誠悟(早稲田大学)、【司会】小菅隼人(慶應義塾大学)
コメンテーター:熊谷知子(明治大学)山下純照(成城大学)

マクルーハンは、『メディア論』の副題を、 “The Extension of Man” 「人間の拡張」として、言語や数を始めとする人間の「発明した」あらゆる表現媒体を「メディア」ととらえ、それらの媒体による人間の拡張可能性を指摘しました。マクルーハンは、声や身振りといった生得的な身体の直接表現と「メディア」を対置的なコミュニケーションと捉えており、前者が使われる部族社会(Tribal Society)を「メディア以前」の社会としています。マクルーハンの用語法を援用すれば、通常我々がイメージしている劇場はメディア以前の共同体ということになるでしょう。これまで、演劇には、ごく当たり前のように、「舞台は生物(なまもの)」、「実演の魔力」、「俳優のエネルギー」と言った神秘化が付され、演劇は、舞台上の身体と観客席の身体が同一の場に存在し、「直接的に」伝達される芸術とされてきました。

まず、ここで問題になるのは、俳優の「エネルギー」の支配が及ぶ範囲はどこまでか、という問題でしょう。マクルーハンの議論によれば、メディアに依らずに伝達できる範囲ということになるかもしれません。しかし、同じ時間、同じ場所に存在していても、つまり現前していても、現前効果が非常に薄い場合もあるでしょう。たとえば野球の試合において、外野席の一番後ろで見る野球体験と、テレビでアップやプレーの再現を交えながらで観る場合とどちらが現前効果はあるのでしょうか?

次に、時間的な差異は現前/現前効果という点からどのように考えたらいいのでしょうか? 2006年、ロンドンのパラディアム劇場で初演された『ロンドン・パラディアム劇場のシナトラ』では、スクリーンの中のフランク・シナトラ(1915‐1998)は、自らの生涯を語り、実際のオーケストラの演奏にシンクロして歌います。スクリーンの前では実在の20人のダンサーが踊り、時にはスクリーンを出入りします。パラディウム劇場はシナトラが1950年にイギリス・デビューを果たしたまさにその場所です。シナトラはすでに亡くなっていますので、ライブ・パーフォーマンスでありながら、このショーでは主演俳優がスクリーンの中にしか登場しません。このイベントは、ライブ・パーフォーマンという観点からどのように位置づけられるのでしょうか?舞台上のダンサーと映像の中のシナトラは、存在論的にどのような違いがあるのでしょうか?シナトラの現前効果はシナトラの現前を実現しないのでしょうか?

さらに、私たちは、演劇を論じる場合、多くの場合映像を利用しますが、それは、厳密な意味で演劇研究とは言えないのでしょうか?慶應義塾大学アートセンター土方巽アーカイブには、1986年に亡くなった土方の資料(主として映像)を求めて、ほぼ毎日のように、海外から研究者やダンサーが訪れます。一方、現在50歳代以上の中には、土方巽と一緒に活動をした研究者・ダンサーが残っています。映像でしか土方を知らない世代の研究者は、実際に土方巽の舞台経験のある研究者には、何らかの意味でも、及ばないのでしょうか?

パネリストの方々には司会者から3つの問いかけをしてあります。①演劇のメディアによるライブ性の拡張可能性をどこまで認めるか、②メディア化された演劇映像にどのような可能性と限界があるか、③メディア化された演劇映像を研究材料として使う場合にどのような問題があるのか。各報告者には、上記3つの問いに対する答えを織り込んでいただき、それぞれのご専門の具体例を1〜3例ほど示してくれるように依頼してあります。シンポジウムでは、最初に私が若干の趣旨説明をした後、まず、パネリストに各25分以内で報告をしていただき、その後、パネリスト間のダイアローグを行い、休憩にします。その後、コメンテーターの発言に続いて、ダイアローグをフロアに開きたいと思います。多分演劇体験の根本にも及ぶであろうこの大きな問題を、皆様と一緒に考えたいと思います。(小菅隼人)

岡原正幸(慶應義塾大学)「パフォーマティヴ・ターン以後の認識実践」

社会学的な認識実践の歴史において、個人・身体・主体の系と、社会・役割・システムの系は長きにわたって、主人公の役を互いに奪い合ってきた。1980年代以降、両者の調停は幾度となく繰り返され、純粋な社会理論の次元では主人公を分け合っている現状である。他方、生きられる経験を主軸として身体性に着目する認識実践が90年代以降登場する。今回の私のトークでは、専門としてきた社会学実践の動きを参照しながら、演劇という出来事における「ライブ×メディア」の問題を考えたい。デリダが西欧哲学の流れで批判した現前の形而上学、それと同型の経験構造は近代社会の成り立ちの根幹にもあり、私たちの日常意識を形成するものでもある。およそあらゆる社会制度は、芸術も文学も演劇も、この形而上学を「事実」として受容することで、あるいはそれを日々実践的に再生産(パフォーマンス)することで運営されてきた。演劇学や社会学という研究実践、認識実践もその例外ではない、この点に注目しながら、司会者の問いかけに答えられたらと思う。

岡原正幸(おかはらまさゆき)慶應義塾大学文学部(社会学専攻)教授。慶應義塾大学経済学部卒業。ミュンヘン大学演劇学専攻。慶應義塾大学社会学研究科博士課程修了。ハンブルク大学パフォーマンス・スタディーズセンター客員研究員。専門は、感情社会学、障害学、アートベース・リサーチ、パフォーマンス・エスノグラフィなど、著作としては『感情を生きる〜パフォーマティブ社会学へ』(慶應義塾大学出版会、2014年)『感情資本主義に生まれて〜感情と身体の新たな地平を模索する』(慶應義塾大学出版会、2013年)、『生の技法〜家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(第3版文庫版 生活書院、2012年)、『黒板とワイン〜もうひとつの学び場「三田の家」』(慶應義塾大学出版会、2010年)、『ホモ・アフェクトス〜感情社会学的に自己表現する』(世界思想社、1998年)などがある。

辻佐保子(早稲田大学)「ベティ・コムデン&アドルフ・グリーン作品における複製メディアの機能とその変容についての考察? ブロードウェイ・ミュージカルに生じた『ライブ×メディア』の転換を背景として」

ブロードウェイ・ミュージカルにおけるライブ・パフォーマンスと複製メディアとの関係は、1960年代後半から1970年代にかけて大きく変化していく。ロック・ミュージカルの勃興を皮切りに、電子サウンドが本格的に取り込まれ、劇場へのスピーカー設置が進行し、マイクの使用も常態となる。複製メディアの導入によって、ブロードウェイ・ミュージカルにおける「ライブ×メディア」のあり方やライブ性という概念はどのように変容や再検討が迫られたのだろうか。

本発表では、脚本家・作詞家のベティ・コムデン&アドルフ・グリーンに光をあて、作中に登場する複製メディアの機能分析を通して、「ライブ×メディア」を巡る時流の変化に際した同時代的な反応を浮き彫りにすることを目指す。具体的には、『フェイド・アウト ? フェイド・イン』(1964)、『アプローズ』(1970)、『雨に唄えば』(1985)を取り上げて、身体性の強調から、現前する身体の「正統性(オーセンティシティ)」の相対化と強化へと複製メディアの機能が変化し、併せてライブ・パフォーマンスとしてのあり方が問い直されていることを、上述の時流の変化との結びつきを指摘しながら明らかにする。

(なお発表では触れないものの、当該時期には上演映像のアーカイブ化やトニー賞授賞式のテレビ放送も開始する。可能であれば、演劇映像を巡る可能性や限界、諸問題は発表後のダイアローグで触れたい)

辻佐保子(つじさほこ)早稲田大学文学研究科助手・博士後期課程在籍。専門はアメリカン・ミュージカルとミュージカル映画。論文:「ミュージカル『特急二十世紀号に乗って』における楽曲の機能 – スクリューボール・コメディからの翻案という背景を踏まえて」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』(2014年、59号第3輯)、「電話・俳優・「パフォーマティブ」な演劇のモード – ミュージカル『ベルがなっている』論」『表象・メディア研究』(2013年、3号)、「”Time is Precious Stuff” – ミュージカル『オン・ザ・タウン』における時間表象についての考察」『演劇映像学』(2013年)

田ノ口誠悟(早稲田大学)「近現代演劇における「ライブ性」を拡張した諸表現について—フランスの例を中心に」

本シンポジウム「ライブ×メディア—演劇と映像の関係性をめぐって」は、「芸術作品」としての演劇を長らく条件づけてきた「ライブ性」「現前性」という美的概念を相対化し、これまでの演劇を見直してみようとするものといえる。インターネットの発達によって「劇場にいない観客(ウェブカメラの向こうの観客)」という現象が生じ、なにを持って演劇体験とするかが問題となっているのである。

私は、この問題提起について、特にフランス近現代演劇を例にして考えてみたい。まず、「演劇はライブの芸術である」という視点が比較的最近批評家の間で生まれた美学の一つに過ぎないことを指摘する。そのうえで、「ライブとしての演劇」という視点からはみ出る(それゆえ従来の演劇史においてはさほど尊重されなかった)事例をいくつか紹介する。考えてみれば、アルフレッド・ド・ミュッセの「肘掛け椅子の演劇」からステファン・ケーギの「携帯電話の演劇」まで、欧米においては実に多くの演劇人がさまざまなメディアを使って演劇のライブ性の範囲を広げてきたのである。

田ノ口誠悟(たのくちせいご)早稲田大学大学院文学研究科博士課程在籍。専門:二十世紀フランス演劇、主な論文:「演劇とデモクラシー——政治的言論生産装置としてのジャン・ジロドゥ『ジークフリート』」、『フランス語フランス文学研究』(日本フランス語フランス文学会)103号。