回覧:レイモンド・ウィリアムズ シンポジウム

会員の大貫隆史さんより、3月22日(土)に、日本女子大学にて開かれるレイモンド
・ウィリアムズ(Raymond Williams, 1921-88)のシンポジウムの回覧依頼がありまし
たので、お知らせします。なお、添付文書がございますが、携帯電話で受信して読めな
い方は、下記のURLをご参照くださいますようお願いします。
(http://www010.upp.so-net.ne.jp/rododaktulos/RWsynposium22Mar08.html)
(以下貼り付け)
日本女子大学文学部学術交流研究会
       シンポジウム
    批評としての経験/経験としての批評
       ―レイモンド・ウィリアムズとの出会い―
                        
               没後20年、ウィリアムズの批評/実践を検証する  
報告者:
 遠藤 不比人(首都大学東京 准教授)
     共同体とエロス/死――レイモンド・ウィリアムズの行間を読む
 大貫 隆史(釧路公立大学 准教授)
   _Modern Tragedy_再考
――レイモンド・ウィリアムズと有機体性、全体性、そして経験の問題
 河野 真太郎(京都ノートルダム女子大学 専任講師)
     移動と近代の〈経験〉──レイモンド・ウィリアムズの批評と実践
ディスカッサント:
 鈴木 英明(山脇学園短期大学 准教授) 
司会:
 川端 康雄(日本女子大学 教授)
日時:2008年3月22日(土)午後1時30分より
会場:日本女子大学目白キャンパス 新泉山館2階会議室
各報告の梗概
共同体とエロス/死
――レイモンド・ウィリアムズの行間を読む――
遠藤 不比人
 The Country and the City (1973) の21章 “Surviving Countrymen” においてウィリ
アムズは、D・H・ロレンスやT・F・ポウイスらの田園小説において大地に過剰な性的意
味が付与される――たとえばploughing がsex として表象されるような――文学表現を
the rural-sexual metaphors と呼び、それを the true Georgian mode の重要な一要
素と見做しながら、そこに潜在するイデオロギー的な可能性として a militant reside
nt Toryism ないしは fascism との親和性を仄めかしている。断片的な示唆ではあるが
この極めて興味深いウィリアムズの洞察を「大戦間」の共同体の問題として再考してみ
たい。具体的な作業としては、同時代の共同体と「エロス=死」という問題系を思考し
たウィリアム・エムプソン、彼に言及しながら共同体と「死の欲動」という視点を提出
したリンジィ・ストウンブリッジの議論を踏まえつつ、ウィリアムズの共同体論が蔵す
る批評的な可能性/アクチュアリティを彼の鍵語たる「経験」という問題に即して模索
する。
Modern Tragedy_再考
――レイモンド・ウィリアムズと有機体性、全体性、そして経験の問題――
大貫 隆史
 レイモンド・ウィリアムズ再評価の流れが本格化しつつある。ただし、ウィリアムズ
の演劇論をどのように評価するのか、という作業はいまだ不十分なように思われる。な
かでも、フランク・カーモード、テリー・イーグルトンらによって厳しい批判が加えら
れてきた_Modern Tragedy_(1966)は、1960年代前半におけるウィリアムズの仕事の集大
成といえる位置づけをもちながらも、本格的な分析がなされていない著作といってよい
ものである。 
しかし、ウィリアムズを「発見」しつつある潮流のひとつに、モダニティ再考という
流れがあることを考えるとき、_“Modern” Tragedy_という書物のもつ意味は大きい。
これを踏まえ、同書第一部を主たる考察対象とする本報告では、モダニティに対する彼
の独特な視線を考察するための準備作業を進めていきたい。 
Modern Tragedy_に見出されるモダニティとは、どのようなものなのか? これを解明
していくための手がかりは、ひとまず、小説ではなく「悲劇」というジャンルが焦点化
されている点にある。ジェルジ・ルカーチとは異なり、「叙事詩」ではなく「ギリシア
悲劇」がその出発点になっていることが、本報告においては重要な論点となるだろう。
そして、この特異性を論じつつ、近年非常に悪名たかい「有機体性organicism」、「全
体性wholeness」、「経験experience」という概念が、彼のモダニティへの視線におい
て、いかなる意味をもっているのか、あわせて解明していきたい。
移動と近代の〈経験〉
──レイモンド・ウィリアムズの批評と実践――
河野 真太郎
 本報告では、『英語青年』(2006年4月号)に寄せた記事(「田舎者の英文学――レ
イモンド・ウィリアムズと都市文化」)を発展させる形で、ウィリアムズにおける「経
験」という用語の批評的/歴史的意義を考察しつつ、『文化と社会』から『田舎と都会
』、そして「メトロポリス的知覚」論文にいたるウィリアムズの批評を、「経験experi
ence」と「移動mobility」という用語を軸に考察したい。「経験」は、先行世代の批評
家(リチャーズ、リーヴィス、ウィリアム・エンプソン)との緊張関係を刻印すると同
時に、ウィリアムズの唯物論(「文化と社会」を分離する抽象化を拒む、一元論的唯物
論)の鍵用語とみなせる。「移動」とは地理的移動であると同時に、社会的/階級的/文
化的移動でもあり、ウィリアムズにおいて移動は数ある批評テーマのうちのひとつでは
なく、近代を考える上で規範的重要性をもつテーマであった。これら二つの用語が織り
なすウィリアムズの批評地図を(できれば彼の小説作品にも触れつつ)あぶり出すこと
によって、ウィリアムズの現代的意義を考察したい。
問合先: 川端 康雄 ykawabata@fc.jwu.ac.jp

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です